木造二階建ての、古びた一軒家。それが柚希〈ゆずき〉の家だった。
門扉を開けて中に入ると、少しばかりの庭がある。
都会でマンション暮らしだった彼にとって、庭があるのは新鮮だった。ここに越して真っ先に彼がしたことは、庭に菜園を作ることだった。
三年ほど誰も住んでいなかったせいもあり、来た時には雑草が生い茂って荒れ放題になっていた。 越してきて一ヶ月。ようやく土も落ち着き、二十日大根やトマトの芽が出ていた。 玄関の鍵を開けて土間に鞄を置くと、彼は菜園に水をまいた。「おかえり柚希。遅かったね」
彼の家の隣に、同じような造りをした一軒家がある。
その二階の窓から顔を出した早苗〈さなえ〉が、声をかけてきた。「もうすぐご飯出来るから。それ終わったら手を洗って来るんだよ」
そう言って早苗は大袈裟に手を振り、微笑んだ。
柚希も手を振って応える。水をやり終えると家に入り、制服を脱いだ。
傷はなくなったが、あちこちが土で汚れていた。このまま行けば、また早苗から質問攻めにあってしまう。 クラス委員でもある早苗の親切は嬉しいが、こればかりは簡単に解決出来るものではない。 早苗も薄々感じていて、事あるごとに聞いてくるのだが、安っぽい男のプライドが、女子に相談することにブレーキをかけていた。 それに何より、早苗に心配をかけるのが嫌だった。「こんばんは」
「おお、おかえり。丁度呼びに行こうとしてたところだ。早く入りなさい」
早苗の父、小倉孝司〈おぐら・たかし〉が、夕刊を手に柚希を出迎えた。
「あ、はい……いつもすいません」
「そろそろそのかしこまったの、なんとかせんとな。うははははははっ」
豪快に笑う孝司に続いて、柚希も居間に向かった。
「お兄ちゃん、いらっしゃい。巨人勝ってるよ」
早苗の弟、昇〈のぼる〉が嬉しそうに柚希を迎える。
「なるほど。それでおじさん、ご機嫌なんだね」
「何を言うか、野球の結果ぐらいで機嫌が変わってたまるか」
「負けてたら無口になる人が、何言ってるやら」
意地悪そうに笑いながら、早苗が突っ込む。
「柚希、遅かったね。さ、座って座って」
「柚希くんおかえり。寄り道でもしてたの?」
「こんばんは、おばさん。ちょっと足を伸ばして、川の方に行ってみたんです」
「あんなとこまで行ってたのかい。で、どうだった? いい写真、撮れそうなところあった?」
「お母さん、柚希の写真好きだもんね」
早苗の突っ込みに母、加奈子〈かなこ〉が大袈裟にうなずく。
「柚希くんの写真はね……何て言ったらいいのかな、魂が入ってるって感じ? ここに住んでる私たちには撮れない写真が撮れるのよ」
「わしにはよく分からんなあ」
「お父さんには分からないわよ。昔からお父さん、絵とか写真とか、そんなものに全然興味なかったじゃない。美術館でデートしても、退屈そうにしてたし」
「加奈子、そんな昔のことを今言わんでも」
「ねえお姉ちゃん、話なら食べながらしようよ。お腹すいた」
「だね。じゃあみんな、手を合わせて。いっただっきまーす」
「いただきまーす」
早苗の号令で夕飯が始まった。
テレビでは野球が流れている。
動きがあると、孝司と昇が身を乗り出して声を上げる。 加奈子と早苗は料理の味を確かめ合い、次は何に挑戦しようかと笑顔で話している。賑やかな、賑やかな食卓だった。
父と二人での生活をしてきた柚希にとって、この賑やかで温かい小倉家の食卓は、正に別世界のようだった。* * *
柚希の父、誠治〈せいじ〉は仕事でいつも遅く、早くに母を亡くした柚希は、幼い頃から一人で食事をすることに慣れていた。
そんな彼にとって食事の時間は、栄養を摂取する為の時間でしかなかった。 団欒なんてものは、映画やドラマの世界だけのフィクション、そう思っていた。 だから小倉家で、当たり前のように繰り広げられているこの団欒は、柚希にとって衝撃であり、最初の頃は戸惑いの連続だった。 しかし共に過ごす時間を重ねるにつれ、その雰囲気にも慣れていき、いつの間にか小倉家で過ごす時間が楽しみになっていった。「柚希くん。誠治は仕事、相変わらず忙しいのか」
CMが入ったところで、孝司が柚希に話を振ってきた。
「はい、そうみたいです。昨日も電話で話してたんですけど、家にもほとんど帰れてないみたいで」
「そうか。あいつ、クソ真面目なところは全然変わってないな。じゃあこっちの家にも、帰ってくる暇なんて中々ないだろうな」
「そうですね。こっちに引っ越すって聞いた時から、分かってはいましたけど。向こうにいた時だって、三日に一度ぐらいしか帰ってなかったですから」
「お父さんを信用してるんだよ、柚希のお父さんは」
早苗が孝司に向かって言った。
「お父さんに頼めば大丈夫、柚希のお父さんも安心してるんだよ。いいよね、そう言う男の友情って」
「信用って意味じゃ早苗、それに柚希くん。お前たちもだぞ」
「え?」
「誠治は早苗に、柚希くんのことを頼んだ。そしてお前は了承した。だけどお前がいくら任せてほしいと思っても、やつがお前のことを信頼に足る人間だと思わなかったら、安心して任せられないだろう。
お前を見て、お前と話して。お前のことを信頼出来ると思ったからこそ、誠治も安心して仕事に打ち込める。柚希くんもだぞ。誠治はとにかく、君のことを信頼してる。 確かに今まで、辛いこともあっただろう。でもいくら環境を変えたくても、柚希くんを信頼してなかったら、目の届かないところに一人でやる訳がない。だから二人共、誠治がした決断が正しかったと思えるよう、しっかり頑張るんだぞ」「当然。柚希は大事な弟だからね」
「ありがとうございます……」
「まあ、柚希くんの次の目標は、そのかしこまった言葉使いをやめることだな。うははははははっ」
「急には無理ですよ。大体お父さん、巨人が負けた日は顔が怖いし」
「そうか? うははははははっ」
「お父さん、またそうやって笑って誤魔化す」
「今日は勝ってるからいいけどね」
「うははははははっ」
湯船につかりながら、柚希〈ゆずき〉は紅音〈あかね〉のことを考えていた。 ここに越してから、柚希は基本、食事と風呂を小倉家で済ませている。 初めの頃は、自分の家があり生活があるからと拒んでいたのだが、早苗〈さなえ〉の勢いに流される回数が徐々に増えていき、いつの間にかこれが日常になっていた。「綺麗な人、だったな……紅音さん……」 小さく笑う紅音を思い出すと、自然と口元が緩んだ。 * * * 柚希はこれまで、身近な女性を意識したことがなかった。 清楚で無垢、そして自分を包み込んでくれる存在。それが柚希の求める女性像だった。 それは幼い頃に事故で亡くした、大好きだった母親への想いに重ねられているとも言えた。 どこにいても浮いた存在で、常にいじめの対象だった彼に興味を持つ女性もいなかったが、彼自身、劣等感を持つこともなかった。 彼の理想の女性像を、同世代に求めることが出来ないと分かっていたからだ。 しかし紅音は、その理想を求めるに足る初めての女性だった。 勿論彼女のことを、まだ何も知らない。 しかし彼女の姿を思い描き、仕草を思い返すと、彼の胸は高鳴った。 湯船から出た柚希は、椅子に座り体を洗い出した。 毎日のように受ける暴力で、体のあちこちは傷ついていた。 いつもは痛くならないように、慎重に慎重に洗っていた。 しかし今日、本当に久しぶりに。痛みを気にせず洗うことが出来た。 それが嬉しかった。 その時、突然ドアが開いた。「柚希―、湯加減どう?」 短パンにティーシャツ姿の早苗だった。「うわっ!」 柚希は反射的に湯船に飛び込んだ。「早苗ちゃん、いつも言ってるだろ。いきなりドアを開けないでって」「あははははっ、別にいいじゃない。私にとっては柚希も昇〈のぼる〉も、可愛い可愛い弟なんだからさ。これぐらいで騒がないの」「い
「紅音〈あかね〉。今朝は随分楽しそうだね」 朝食を食べながら、桐島医院院長、桐島明雄〈きりしま・あきお〉が笑顔を向ける。「はい、お父様。今朝はとても気分がよくて」「何か、いいことでもあったのかな」「はい、実は……」 紅音は紅茶をひと口飲み、少し緊張気味に続けた。「お友達が出来ました」「友達……」「はい。昨日コウと散歩している時、知り合った方なんです。何でもその方、つい最近こちらに越してきたばかりらしくて。 色々お話させてもらっている内に、友達になりませんか、そうおっしゃってくれたんです」「そうか、友達が……よかったじゃないか」「は……はい!」 父の反応に、紅音が安堵の表情を浮かべた。「お嬢様、よほど嬉しかったみたいです。それにその方のこと、かなりお気に召されたご様子で」 明雄のカップにコーヒーを注ぎながら、桐島家で給仕をしている山代晴美〈やましろ・はるみ〉が微笑む。「お嬢様のスケッチブックに、その方のデッサンがありました」「え……え? 晴美さん、見たんですか?」 動揺する紅音に、晴美が満足そうな笑みを浮かべる。「はい。お嬢様のベッドを整えている時に」「え? え? 嘘、嘘」 紅音が顔を真っ赤にしてうつむく。 その反応、仕草を待っていたかのように、晴美は紅音の傍まで小走りに行くと、そのまま後ろから抱きしめた。「きゃっ! は、晴美さん?」「むふふふっ。これで今日も一日、しっかりお嬢様にご奉仕することが出来ます。あ、でもお嬢様、誤解なさらないでくださいませ。私、お嬢様の部屋を物色してた訳ではございませんので。ベッドを整えに入った時に『たまたま』スケッチブックが開かれてあったものですから」「はっはっは。それで晴美くん、紅音の友達というの
「ゆーずきー、一緒に食べよー」 昼休み。 弁当箱を手にした早苗〈さなえ〉が、そう言って柚希〈ゆずき〉の肩を叩く。「うん、小倉さん」「さ・な・え。そんなに私を名前で呼ぶの、嫌?」「いや、そうじゃなくて……学校では名前で呼ぶの、勘弁してよ」「なーに言ってるんだか。私の名前なんだからいいじゃない。別に違う名前で呼べって言ってる訳でもないんだからさ」「いや、だから……ほら、みんな見てるから」「はいはい分かりました。藤崎君、一緒にお弁当食べませんか」「だから……怒らないでって」「ふふっ。ほら、柚希もお弁当出して」 クラスメイトの視線を気にもせず、早苗が柚希の前に座る。「はいお茶」「ありがと」 柚希が入れたお茶を受け取り、早苗が飲もうとすると、かけていた眼鏡がくもった。「ありゃりゃ、またやっちゃった。家ではかけてないから、つい忘れちゃうんだよね」 そう言って、早苗は舌を出して笑った。 * * * 早苗の視力は、眼鏡をかけるほど悪くない。 家にいる時は眼鏡なしで、特に支障もない。 しかし早苗は学校に行く時、必ず眼鏡をしていた。 そのことを柚希が聞いた時、早苗はモードチェンジなんだと答えた。 家ではリラックスモード、学校では委員長モード。 その切り替えにはこれが一番なんだと。 自分自身の気持ちを切り替える為に、高校に入った時に編み出した方法なんだと言っていた。 いつも柚希と登校する時、彼の前で眼鏡を取り出し、「装着!」 そう言って眼鏡をかける。 それは彼女の生真面目な性格から来ているものなんだ、そう柚希は理解していた。 * * * 机に並べられたふたつの弁当箱。
放課後。 ホームルームが終わると同時に、柚希〈ゆずき〉は教室を後にした。 小走りに小川に向かう。 時々後ろを振り返り、山崎たちがついてきていないか確認しながら、柚希は先を急いだ。 * * * 小川に着き時計を見ると、約束の時間までまだ30分ほどあった。 柚希は木の傍に鞄を置き、一眼レフのカメラを取り出した。 標準レンズを取り付けると、フイルムを入れてファインダー越しに辺りを見渡す。 昨日感じた通り、ここは撮影ポイントとしてかなりいい。 早速柚希はシャッターを切った。 気分が乗らない時や、被写体に魅力を感じない時には味わえない、いいリズムでシャッターを切っていく。 柚希にとって、至福の時間だった。 あっと言う間にフイルムを使い切り、二本目のフイルムを入れている時、土手の向こうから犬の鳴く声が聞こえた。 振り返るとそこに、真紅のワンピースに身を包み、黒い日傘を差した紅音〈あかね〉とコウの姿があった。「こんにちは」 昨日と同じ、風にかき消されそうなか細い声。 その声を聞くと、柚希の鼓動は高鳴った。「こ、こんにちは、紅音さん」 柚希の言葉に、紅音は嬉しそうに笑顔を向けた。 コウが柚希の元に走り飛びつく。「あはははっ。コウ、一日ぶり」 コウとじゃれあう柚希に微笑みながら、紅音は土手をゆっくりと下りてきた。「ここ、いいですか?」「は、はい……」 紅音が側に来ると、柚希の胸が熱くなった。 紅音は肩から提げていたバスケットを下ろすと、照れくさそうにうつむく柚希の隣に座った。「怪我の具合、どうですか?」「あ、はい、大丈夫です。本当にありがとうございました」「柚希さんのお役に立てたのなら……よかったです」「本当、
撮影は、想像していた以上に紅音〈あかね〉との距離を近くしていった。 柚希〈ゆずき〉もファインダー越しだと、自分でも不思議なくらい積極的に話しかけることが出来た。 気がつくと、二人は自然に会話出来るようになっていた。 幼い頃に亡くした母をほとんど覚えていないことや、愛犬のコウがシュナウザーという種類で、紅音が13歳の時に家に来たこと、自分に色がない分、濃い色が好きで、身につける物も自然と原色系になってしまうことなど、紅音は自分のことを興奮気味に話し続けた。 病気のおかげで学校にも行けず、他人と距離を置く生活をずっと続けてきた。 近所の住人や父の患者たちとの接触はあるものの、挨拶もままならなかった。 他人と離れすぎてしまった生き方に悩むこともあったが、挑戦する勇気も出なかった。 そんな自分が今、昨日会ったばかりの人とこんなに自然に話せている。 そのことが嬉しくて仕方なかった。 紅音は柚希との出会いに感謝し、喜びを感じていた。 柚希も紅音の話を聞きながら、もっと彼女のことを知りたい、そう思った。 そして、そんな風に感じられる人に出会えたことが、何より嬉しかった。 * * * 腕時計のアラームが鳴った。 その音に二人がはっとすると、いつの間にか空は茜色に染まっていた。「いけない。いつの間にか、もうこんな時間に」「す、すいません僕、時間も考えずに話しこんじゃって」「私の方こそ、楽しすぎて、つい……」 そう言ってお互い見つめ合い、笑った。「楽しかったです、紅音さん」「私こそ、ありがとうございました」「あ、それから……晴美〈はるみ〉さんにもお礼、言ってもらっていいですか。サンドイッチ、ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」「晴美さん、きっと喜びます」「それから、お父さんにも伝えてもらえますか。近い内に、診察に伺いますって」
「それで、柚希〈ゆずき〉はどう? 試験の準備はばっちり?」「うん、何とか……」 小倉家でいつものように夕食、入浴を済ませた柚希が、早苗〈さなえ〉の部屋でそう答えた。 いつもなら居間にカルピスがあるのだが、今日はメモが一枚置いてあった。「カルピスは預かった。部屋まで来るのだ 早苗」 柚希は早苗の部屋が苦手だった。 同世代の女子の部屋。そう考えるだけで逃げたくなった。 それに早苗は、部屋ではいつもティーシャツに短パン姿で、目のやり場に困るのだった。 都会の間取りに比べれば開放感があるのだが、それでも二人きりで密室にいることに変わりはない。 だから柚希は、余程のことがない限り早苗の部屋には近付こうとしなかった。「何とかって柚希、ほんとに大丈夫? 確かにうちは田舎の高校だけど、そこそこレベル高いよ? 何なら勉強、見てあげようか?」「ありがとう。でも……今回は一人で頑張ってみるよ。こっちに来てから初めての試験だし」「そっか。ちょっと心配だけど、柚希がそう言うんだったらいいか。もし補習や追試になったら、その時しっかり見てあげよう」「ありがとう、早苗ちゃん」 来週に迫った中間試験。 柚希にとっては一年ぶりの定期試験だった。 早苗自身も勉強しなくてはならないのに、自分のことを気遣ってくれる、そんな早苗の気持ちが嬉しかった。「でも……久しぶりに入ったけど、いつ見てもすごいね」 そう言って、柚希が部屋を見回した。 壁には今、日本でブームとなっているハリソン・フォードの映画「レイダース/失われた聖櫃〈アーク〉」と、シルベスター・スタローンの「ランボー」のポスターが貼られていた。 机の上にはつい最近、全米で話題になった「E.T.」の人形が置かれている。 本棚には映画のパンフレットがぎっしりと詰まっていて、空い
「うそ……」 中間試験から一週間が過ぎたその日。 貼り出された主要9科目の成績優秀者を見て、早苗〈さなえ〉がそうつぶやいた。 この高校に入学して一年。実力試験を入れて過去に5回、トップを譲ったことは一度もなかった。 しかし今回、一番上に書かれた名前は意外な人物だった。 藤崎柚希〈ふじさき・ゆずき〉 895点 2位の早苗は864点。全科目満点に近い柚希に完敗だった。「藤崎くん、すごいじゃない」「やっぱ都会って、レベル高いんだな」 教室に戻ると、柚希の席をクラスメイトたちが囲んでいた。「そんなこと、ないよ……今回はたまたま……」「謙虚なところが、また格好いいよね」「ねえねえ、今度勉強教えてよ」「おい藤崎。お前だけは、お前だけは仲間だと思ってたのに……」「いやいや、万年赤点のお前と仲間って、俺でもお断りだぞ」 柚希を中心に、クラスが盛り上がっている。 その光景は新鮮で、心地よいものだった。 トップを奪われたことは悔しい。 しかし相手が柚希であることが、少し嬉しかった。 そしてそのことで話題の中心になっている柚希が、困惑気味に赤面している様を見ていると、悔しさもどこかに飛んでいくようだった。「柚希―っ、あんた、私を騙したわねーっ!」 早苗は柚希の席に近付くと、背後からチョークスリーパーをかけてきた。「ちょ……さなっ……小倉さん……」「なーにが小倉さんだー? あんたバカな顔してバカな振りして、よくも私の指定席を奪ったわねー」 早苗がそう言って首を絞める。一瞬、トップを奪われた早苗の乱入で静まった教室だったが、早苗の表情がいつもの物だと分か
「適当に座ってて。麦茶入れてくるから」 早退した二人は一旦、柚希〈ゆずき〉の家に入った。 早苗〈さなえ〉の家には連絡がいってるだろうし、心配していると思った。しかし、早苗をこの状態で帰す訳にはいかない。 少しでも元気な顔に戻ってから帰ってほしい、そう思っての柚希の配慮だった。 帰り道、早苗は柚希と一言も言葉を交わさなかった。 柚希は何度か会話を試みようとしたが、早苗の雰囲気に言葉を飲み込んでいた。「うん、ありがと……」 眼鏡を外した早苗が、そうつぶやいた。 * * * 早苗が柚希の部屋に入るのは、これで二度目だった。 家には何度も入っているが、いつも一階の居間で用事を済ませていた。 こうして入るのは引越しの手伝いの時以来。そういう意味では初めてとも言えた。 柚希が部屋から出て行くと、早苗は鞄を置いてベッドに腰掛け、部屋を見回した。 そう言えば私、男子の部屋に入るのは初めてなんだよね。そう思うと、変に緊張した。「……」 殺風景な部屋だった。 男子の部屋って、こんな感じなのかな。それとも柚希が変わってるのだろうか。 そう言えば、テレビでよく見る男子の部屋は、大抵趣味が形になったような感じだったな。そう思った。 柚希の部屋は、今彼女が腰掛けているベッドの他に勉強机、ステレオと本棚がひとつあるだけ。 早苗の部屋の様に、ポスターが貼られていることもない。 無機質という言葉が一番しっくりくる、そんな感じの部屋だった。「そっか、柚希の趣味ってば写真だよね。確かそれって、隣の部屋に作った暗室でやってるんだっけ。 でもそれにしても、生活感のない部屋だな」 その時、机の上の小さな箱が目に入った。 箱の中には、父が仲のいい友人とたまにしている、花札のようなサイズの何かがぎっしりと並べられていた。 手前のひとつを手に取ると、それは写
(そう言えば柚希〈ゆずき〉、最近学校にカメラを持ってきてたよね。流石にテスト期間中はなかったけど、でもテストが終わるとまた持ってきて……授業が終わるとすぐ帰ってたし、それに最近、やたらと機嫌がよかったし……)「あ、これ」 綺麗に詰められていた筈のフイルムが、歪〈いびつ〉になっているのが柚希の目に入った。「ひょっとして見た?」「え? あ、あははははははっ。ごめんね、何かなって思って」「そっか。いいんだけど、ちょっと恥ずかしいかな」「ねえ柚希。そのフイルムなんだけどさ、どうして色がついてるの?」「これはちょっと変わったフイルムでね、ポジって言うやつなんだ」「ポジ?」「うん。正式にはリバーサルフイルム。普通のフイルムは色が反転してるんだけど、こいつは写真と同じ色の優れものなんだ。 そして、マウント仕上げって言うんだけど、こうして一枚ずつケースに入った状態にしたら、スライドで見ることも出来る。何より、普通のフイルムよりも色に深みがあるんだ。 普通のフイルムも使ってるけど、僕はこっちの方が好きなんだ」「二種類のフイルムを使ってるんだ。なんだかほんと、プロって感じだね」「そんなたいした物じゃないよ。好きなだけだから」「謙遜謙遜。それに柚希ってば、フイルムも自分で現像? だっけか、してるんだよね」「こっちは無理なんだ」「こっちって、そのスライドネガ?」「スライドネガね、ははっ……こっちのネガを自分で現像しようと思ったら、とんでもなく高い機械を買わないといけないんだ。近所の写真屋さんに持っていくんだけど、そこも機械を置いてないから、大きい現像所に持っていってるんだ」「そっかぁ。でも面白いフイルムだよね。ねえねえ、今度柚希が気に入ってる写真、スライドで見せてよ」「……だからこれは知られたくなかったんだ。スライドなんかで見られたら、恥ずかしさ倍増だよ」
「適当に座ってて。麦茶入れてくるから」 早退した二人は一旦、柚希〈ゆずき〉の家に入った。 早苗〈さなえ〉の家には連絡がいってるだろうし、心配していると思った。しかし、早苗をこの状態で帰す訳にはいかない。 少しでも元気な顔に戻ってから帰ってほしい、そう思っての柚希の配慮だった。 帰り道、早苗は柚希と一言も言葉を交わさなかった。 柚希は何度か会話を試みようとしたが、早苗の雰囲気に言葉を飲み込んでいた。「うん、ありがと……」 眼鏡を外した早苗が、そうつぶやいた。 * * * 早苗が柚希の部屋に入るのは、これで二度目だった。 家には何度も入っているが、いつも一階の居間で用事を済ませていた。 こうして入るのは引越しの手伝いの時以来。そういう意味では初めてとも言えた。 柚希が部屋から出て行くと、早苗は鞄を置いてベッドに腰掛け、部屋を見回した。 そう言えば私、男子の部屋に入るのは初めてなんだよね。そう思うと、変に緊張した。「……」 殺風景な部屋だった。 男子の部屋って、こんな感じなのかな。それとも柚希が変わってるのだろうか。 そう言えば、テレビでよく見る男子の部屋は、大抵趣味が形になったような感じだったな。そう思った。 柚希の部屋は、今彼女が腰掛けているベッドの他に勉強机、ステレオと本棚がひとつあるだけ。 早苗の部屋の様に、ポスターが貼られていることもない。 無機質という言葉が一番しっくりくる、そんな感じの部屋だった。「そっか、柚希の趣味ってば写真だよね。確かそれって、隣の部屋に作った暗室でやってるんだっけ。 でもそれにしても、生活感のない部屋だな」 その時、机の上の小さな箱が目に入った。 箱の中には、父が仲のいい友人とたまにしている、花札のようなサイズの何かがぎっしりと並べられていた。 手前のひとつを手に取ると、それは写
「うそ……」 中間試験から一週間が過ぎたその日。 貼り出された主要9科目の成績優秀者を見て、早苗〈さなえ〉がそうつぶやいた。 この高校に入学して一年。実力試験を入れて過去に5回、トップを譲ったことは一度もなかった。 しかし今回、一番上に書かれた名前は意外な人物だった。 藤崎柚希〈ふじさき・ゆずき〉 895点 2位の早苗は864点。全科目満点に近い柚希に完敗だった。「藤崎くん、すごいじゃない」「やっぱ都会って、レベル高いんだな」 教室に戻ると、柚希の席をクラスメイトたちが囲んでいた。「そんなこと、ないよ……今回はたまたま……」「謙虚なところが、また格好いいよね」「ねえねえ、今度勉強教えてよ」「おい藤崎。お前だけは、お前だけは仲間だと思ってたのに……」「いやいや、万年赤点のお前と仲間って、俺でもお断りだぞ」 柚希を中心に、クラスが盛り上がっている。 その光景は新鮮で、心地よいものだった。 トップを奪われたことは悔しい。 しかし相手が柚希であることが、少し嬉しかった。 そしてそのことで話題の中心になっている柚希が、困惑気味に赤面している様を見ていると、悔しさもどこかに飛んでいくようだった。「柚希―っ、あんた、私を騙したわねーっ!」 早苗は柚希の席に近付くと、背後からチョークスリーパーをかけてきた。「ちょ……さなっ……小倉さん……」「なーにが小倉さんだー? あんたバカな顔してバカな振りして、よくも私の指定席を奪ったわねー」 早苗がそう言って首を絞める。一瞬、トップを奪われた早苗の乱入で静まった教室だったが、早苗の表情がいつもの物だと分か
「それで、柚希〈ゆずき〉はどう? 試験の準備はばっちり?」「うん、何とか……」 小倉家でいつものように夕食、入浴を済ませた柚希が、早苗〈さなえ〉の部屋でそう答えた。 いつもなら居間にカルピスがあるのだが、今日はメモが一枚置いてあった。「カルピスは預かった。部屋まで来るのだ 早苗」 柚希は早苗の部屋が苦手だった。 同世代の女子の部屋。そう考えるだけで逃げたくなった。 それに早苗は、部屋ではいつもティーシャツに短パン姿で、目のやり場に困るのだった。 都会の間取りに比べれば開放感があるのだが、それでも二人きりで密室にいることに変わりはない。 だから柚希は、余程のことがない限り早苗の部屋には近付こうとしなかった。「何とかって柚希、ほんとに大丈夫? 確かにうちは田舎の高校だけど、そこそこレベル高いよ? 何なら勉強、見てあげようか?」「ありがとう。でも……今回は一人で頑張ってみるよ。こっちに来てから初めての試験だし」「そっか。ちょっと心配だけど、柚希がそう言うんだったらいいか。もし補習や追試になったら、その時しっかり見てあげよう」「ありがとう、早苗ちゃん」 来週に迫った中間試験。 柚希にとっては一年ぶりの定期試験だった。 早苗自身も勉強しなくてはならないのに、自分のことを気遣ってくれる、そんな早苗の気持ちが嬉しかった。「でも……久しぶりに入ったけど、いつ見てもすごいね」 そう言って、柚希が部屋を見回した。 壁には今、日本でブームとなっているハリソン・フォードの映画「レイダース/失われた聖櫃〈アーク〉」と、シルベスター・スタローンの「ランボー」のポスターが貼られていた。 机の上にはつい最近、全米で話題になった「E.T.」の人形が置かれている。 本棚には映画のパンフレットがぎっしりと詰まっていて、空い
撮影は、想像していた以上に紅音〈あかね〉との距離を近くしていった。 柚希〈ゆずき〉もファインダー越しだと、自分でも不思議なくらい積極的に話しかけることが出来た。 気がつくと、二人は自然に会話出来るようになっていた。 幼い頃に亡くした母をほとんど覚えていないことや、愛犬のコウがシュナウザーという種類で、紅音が13歳の時に家に来たこと、自分に色がない分、濃い色が好きで、身につける物も自然と原色系になってしまうことなど、紅音は自分のことを興奮気味に話し続けた。 病気のおかげで学校にも行けず、他人と距離を置く生活をずっと続けてきた。 近所の住人や父の患者たちとの接触はあるものの、挨拶もままならなかった。 他人と離れすぎてしまった生き方に悩むこともあったが、挑戦する勇気も出なかった。 そんな自分が今、昨日会ったばかりの人とこんなに自然に話せている。 そのことが嬉しくて仕方なかった。 紅音は柚希との出会いに感謝し、喜びを感じていた。 柚希も紅音の話を聞きながら、もっと彼女のことを知りたい、そう思った。 そして、そんな風に感じられる人に出会えたことが、何より嬉しかった。 * * * 腕時計のアラームが鳴った。 その音に二人がはっとすると、いつの間にか空は茜色に染まっていた。「いけない。いつの間にか、もうこんな時間に」「す、すいません僕、時間も考えずに話しこんじゃって」「私の方こそ、楽しすぎて、つい……」 そう言ってお互い見つめ合い、笑った。「楽しかったです、紅音さん」「私こそ、ありがとうございました」「あ、それから……晴美〈はるみ〉さんにもお礼、言ってもらっていいですか。サンドイッチ、ごちそうさまでした。とてもおいしかったです」「晴美さん、きっと喜びます」「それから、お父さんにも伝えてもらえますか。近い内に、診察に伺いますって」
放課後。 ホームルームが終わると同時に、柚希〈ゆずき〉は教室を後にした。 小走りに小川に向かう。 時々後ろを振り返り、山崎たちがついてきていないか確認しながら、柚希は先を急いだ。 * * * 小川に着き時計を見ると、約束の時間までまだ30分ほどあった。 柚希は木の傍に鞄を置き、一眼レフのカメラを取り出した。 標準レンズを取り付けると、フイルムを入れてファインダー越しに辺りを見渡す。 昨日感じた通り、ここは撮影ポイントとしてかなりいい。 早速柚希はシャッターを切った。 気分が乗らない時や、被写体に魅力を感じない時には味わえない、いいリズムでシャッターを切っていく。 柚希にとって、至福の時間だった。 あっと言う間にフイルムを使い切り、二本目のフイルムを入れている時、土手の向こうから犬の鳴く声が聞こえた。 振り返るとそこに、真紅のワンピースに身を包み、黒い日傘を差した紅音〈あかね〉とコウの姿があった。「こんにちは」 昨日と同じ、風にかき消されそうなか細い声。 その声を聞くと、柚希の鼓動は高鳴った。「こ、こんにちは、紅音さん」 柚希の言葉に、紅音は嬉しそうに笑顔を向けた。 コウが柚希の元に走り飛びつく。「あはははっ。コウ、一日ぶり」 コウとじゃれあう柚希に微笑みながら、紅音は土手をゆっくりと下りてきた。「ここ、いいですか?」「は、はい……」 紅音が側に来ると、柚希の胸が熱くなった。 紅音は肩から提げていたバスケットを下ろすと、照れくさそうにうつむく柚希の隣に座った。「怪我の具合、どうですか?」「あ、はい、大丈夫です。本当にありがとうございました」「柚希さんのお役に立てたのなら……よかったです」「本当、
「ゆーずきー、一緒に食べよー」 昼休み。 弁当箱を手にした早苗〈さなえ〉が、そう言って柚希〈ゆずき〉の肩を叩く。「うん、小倉さん」「さ・な・え。そんなに私を名前で呼ぶの、嫌?」「いや、そうじゃなくて……学校では名前で呼ぶの、勘弁してよ」「なーに言ってるんだか。私の名前なんだからいいじゃない。別に違う名前で呼べって言ってる訳でもないんだからさ」「いや、だから……ほら、みんな見てるから」「はいはい分かりました。藤崎君、一緒にお弁当食べませんか」「だから……怒らないでって」「ふふっ。ほら、柚希もお弁当出して」 クラスメイトの視線を気にもせず、早苗が柚希の前に座る。「はいお茶」「ありがと」 柚希が入れたお茶を受け取り、早苗が飲もうとすると、かけていた眼鏡がくもった。「ありゃりゃ、またやっちゃった。家ではかけてないから、つい忘れちゃうんだよね」 そう言って、早苗は舌を出して笑った。 * * * 早苗の視力は、眼鏡をかけるほど悪くない。 家にいる時は眼鏡なしで、特に支障もない。 しかし早苗は学校に行く時、必ず眼鏡をしていた。 そのことを柚希が聞いた時、早苗はモードチェンジなんだと答えた。 家ではリラックスモード、学校では委員長モード。 その切り替えにはこれが一番なんだと。 自分自身の気持ちを切り替える為に、高校に入った時に編み出した方法なんだと言っていた。 いつも柚希と登校する時、彼の前で眼鏡を取り出し、「装着!」 そう言って眼鏡をかける。 それは彼女の生真面目な性格から来ているものなんだ、そう柚希は理解していた。 * * * 机に並べられたふたつの弁当箱。
「紅音〈あかね〉。今朝は随分楽しそうだね」 朝食を食べながら、桐島医院院長、桐島明雄〈きりしま・あきお〉が笑顔を向ける。「はい、お父様。今朝はとても気分がよくて」「何か、いいことでもあったのかな」「はい、実は……」 紅音は紅茶をひと口飲み、少し緊張気味に続けた。「お友達が出来ました」「友達……」「はい。昨日コウと散歩している時、知り合った方なんです。何でもその方、つい最近こちらに越してきたばかりらしくて。 色々お話させてもらっている内に、友達になりませんか、そうおっしゃってくれたんです」「そうか、友達が……よかったじゃないか」「は……はい!」 父の反応に、紅音が安堵の表情を浮かべた。「お嬢様、よほど嬉しかったみたいです。それにその方のこと、かなりお気に召されたご様子で」 明雄のカップにコーヒーを注ぎながら、桐島家で給仕をしている山代晴美〈やましろ・はるみ〉が微笑む。「お嬢様のスケッチブックに、その方のデッサンがありました」「え……え? 晴美さん、見たんですか?」 動揺する紅音に、晴美が満足そうな笑みを浮かべる。「はい。お嬢様のベッドを整えている時に」「え? え? 嘘、嘘」 紅音が顔を真っ赤にしてうつむく。 その反応、仕草を待っていたかのように、晴美は紅音の傍まで小走りに行くと、そのまま後ろから抱きしめた。「きゃっ! は、晴美さん?」「むふふふっ。これで今日も一日、しっかりお嬢様にご奉仕することが出来ます。あ、でもお嬢様、誤解なさらないでくださいませ。私、お嬢様の部屋を物色してた訳ではございませんので。ベッドを整えに入った時に『たまたま』スケッチブックが開かれてあったものですから」「はっはっは。それで晴美くん、紅音の友達というの
湯船につかりながら、柚希〈ゆずき〉は紅音〈あかね〉のことを考えていた。 ここに越してから、柚希は基本、食事と風呂を小倉家で済ませている。 初めの頃は、自分の家があり生活があるからと拒んでいたのだが、早苗〈さなえ〉の勢いに流される回数が徐々に増えていき、いつの間にかこれが日常になっていた。「綺麗な人、だったな……紅音さん……」 小さく笑う紅音を思い出すと、自然と口元が緩んだ。 * * * 柚希はこれまで、身近な女性を意識したことがなかった。 清楚で無垢、そして自分を包み込んでくれる存在。それが柚希の求める女性像だった。 それは幼い頃に事故で亡くした、大好きだった母親への想いに重ねられているとも言えた。 どこにいても浮いた存在で、常にいじめの対象だった彼に興味を持つ女性もいなかったが、彼自身、劣等感を持つこともなかった。 彼の理想の女性像を、同世代に求めることが出来ないと分かっていたからだ。 しかし紅音は、その理想を求めるに足る初めての女性だった。 勿論彼女のことを、まだ何も知らない。 しかし彼女の姿を思い描き、仕草を思い返すと、彼の胸は高鳴った。 湯船から出た柚希は、椅子に座り体を洗い出した。 毎日のように受ける暴力で、体のあちこちは傷ついていた。 いつもは痛くならないように、慎重に慎重に洗っていた。 しかし今日、本当に久しぶりに。痛みを気にせず洗うことが出来た。 それが嬉しかった。 その時、突然ドアが開いた。「柚希―、湯加減どう?」 短パンにティーシャツ姿の早苗だった。「うわっ!」 柚希は反射的に湯船に飛び込んだ。「早苗ちゃん、いつも言ってるだろ。いきなりドアを開けないでって」「あははははっ、別にいいじゃない。私にとっては柚希も昇〈のぼる〉も、可愛い可愛い弟なんだからさ。これぐらいで騒がないの」「い